2022年04月18日
家族で一番ボクが忍耐をしてないのかも知れない。
家内も息子も、あまり文句というか、暑いの寒いの痛いの痒いの苦しいの…と口にしない。ところがボクは子どもの頃から何でも言っていた。それよりか『何か楽しいことないかなあ』って…そしてお父さんが『そんなに楽しいことなんて(自我と欲を満たすことという意味)ないんだよ』って優しく言われたことを心に残っている。
そう土曜日学校が終わると、土曜の夕食は弟も好きなカレーと決まっていた、というかそうしてもらっていた。タイムボカンシリーズや8時だよ全員集合といった当時の子どもたちの人気番組が何時間も続く。多分ドリフは野球中継で潰れることもない、ありがたい時間だった。
お父さんも家族を養うため、従業員を守るために頑張っていた。宮城県の戦前生れ六人兄弟姉妹の三男だから、その時代は田舎から東京に裸一貫で出てきていた。あの時代背景だから『故郷に錦を飾る』という思いでいた人はたくさんだったんだろうなあ。
縁も所縁もない東京で最初は米屋の丁稚奉公をしていたと訊いていた。プレス工場を経営していたから、その後は工場で働いていたんだよね。そして群馬県から出てきていた母親と知り合い…この辺の馴れ初めはあまり聞いてないんだけどね。母親はガソリンスタンドで働いていたって。
小さな町工場(従業員なんていない)を作るからと、結婚したって…それで1Kのアパートに二人で住んだそうなんだ。そこにボクが生まれる予定でね。母親から『当時の周囲の人たちから“あなたたち(三人なのに)そんなに贅沢ねえ”って言われたよ』って。六畳と台所でトイレがあってお風呂は銭湯利用というのが記憶にある。それが贅沢だと言われた昭和42年(ボクの生まれる前の年)の世相ってことだよね。
今から思うと、弟たちも忍耐していたんだろうなって思う。
地域と時代によって感覚はまったく違う。何が贅沢かなんてわからない。戦争のない世界と戦火の世界では違うでしょ。飢饉…実際のはわからなない、歴史の授業で習う言葉だから。飢饉の中での幸せもわからない。
それでも忍耐が足りない自分だということはわかる。でもこれ以上は無理だよって、こういうことを口にしたり文字にしたりしちゃう辺りが忍耐力がないってことだよなあ。
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